博士論文や投稿論文を執筆中の若手研究者が研究発表し、第一線で活躍する研究者からのコメントをもらい、フロアーも交えて議論します。(発表要旨は本メールの下の方にあります)
後半には、特別企画として、日本文化人類学会の学会誌(日本語・英語)の編集員をお招きし、執筆、投稿、査読に関して自由に質問し、またアドバイスなどをいただく機会を設けます。
なお本年度も託児スペースを設け、子連れでの参加もできるようになっています。若手研究者もそうでない方も、皆様是非足をお運びください。また周囲の関心のありそうな方々にもご紹介いただければと思います。
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日時:2018年11月17日(土)13:00-19:00
会場:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(AA研)304、306室
*発表50分、コメント20分、質疑応答20分
*セミナー終了後は、多磨駅周辺において参加者・関係者による懇親会を予定しておりますので、こちらにも積極的にご参加ください。出欠は当日、会場においてとります。
*託児の希望者は、10月31日までにAA研吉田ゆか子(yoshidayu★aa.tufs.ac.jp ★を@に変えてください)まで、連絡してください。また期日を過ぎてもお引き受けできる可能性もありますので、随時ご連絡ください。
<プログラム>
■13:00-13:05
開会の挨拶 松村圭一郎(岡山大学) 於第1会場(304)
■13:05-14:35
第1会場(304)発表 游乃蕙(東京大学大学院)
「文化人類学からみる日本統治期台湾文学─佐藤春夫の『日月潭に遊ぶ記』『殖民地の旅』を中心に」
コメント 植野弘子(東洋大学)
第2会場(306)発表 合地幸子(AA研)
「インドネシア・ジャワの家族と高齢者ケア―見舞いから看取りまでの社会的動態を中心に」
コメント 鈴木七美(国立民族学博物館)
■14:40-16:10
第1会場(304)発表 アルベルトゥス=トーマス・モリ(AA研)
「華人キリスト者による『短期宣教』への一考察」
コメント 藏本龍介(東京大学)
第2会場(306)発表 川瀬由高(日本学術振興会/東京大学大学院)
「イスの坐りかた―中国の農民生活にみる予期された偶発性とアフォーダンス」
コメント 松村圭一郎(岡山大学)
■16:15-17:45
第1会場(304)発表 横田浩一(亜細亜大学)
「村の祭りと老人たち―中国広東省潮汕地域村落における民俗宗教と自律性」
コメント 片岡樹(京都大学)
第2会場(306)発表 岩瀬裕子(首都大学東京大学院)
「協働的身体の知に関する試論-スペイン・カタルーニャ州、人間の塔の最下部を事例として」
コメント 菅原和孝(京都大学)
■17:50-18:00
講評 床呂郁哉(AA研)、松村圭一郎(岡山大学) 於第1会場(304)
■18:00-19:00
特別企画 『文化人類学』・『Japanese Review of Cultural Anthropology』の編集委員に聞く
執筆・投稿・査読に関わるあれこれ 於第1会場(304)
情報提供 綾部真雄(首都大学東京)・トム・ギル(明治学院大学)
閉会の挨拶 西井凉子(AA研)
<発表要旨>
「文化人類学からみる日本統治期台湾文学─佐藤春夫の『日月潭に遊ぶ記』『殖民地の旅』を中心に」/游乃蕙(東京大学大学院)
1920 年夏、佐藤春夫は友人に招かれ、3ヶ月以上の台湾旅行をはじめた。内地に帰った後、佐藤春夫は台湾旅行で得た見聞をもとに、一連の作品(注1)を次から次へと発表した。これまで日本文学の学問領域において、河原功や藤井省三をはじめとする研究者は、佐藤春夫の台湾紀行文を分析・解釈することに力を注いでおり、多くの研究成果を生み出した。それに対して台湾の場合は、研究・ 翻訳作業に没頭した邱若山の功績を記すべきであろう。その集大成『殖民地之旅』(前衛出版社、 2016 年)が出版されたおかげで、佐藤春夫の作品が台湾でも多くの人に愛読されるようになった。
そこで本稿では、佐藤春夫の「日月潭に遊ぶ記」と「殖民地の旅」という二作品を取り上げ、文化人類学の視点によって佐藤春夫の研究のさらなる可能性を切り拓くことを試みる。まず、台湾旅行でキーマンを演じる人類学者森丑之助が佐藤春夫に与えた影響を分析する。次に、「日月潭に遊ぶ記」に言及した日月潭発電所工事をめぐって、日本の植民地開発政策を再考する。最後に、台湾知識人それぞれの植民地政府に対する立場を忠実的に描写した「殖民地の旅」を通して、百年前の台湾社会の容貌をうかがいながら、「未開」「文明」「友愛」の諸概念を再検討する。
日台を問わず、佐藤春夫の台湾関係の諸作品に対する関心が高まりつつある今日において、本研究をきっかけとして、異分野の研究者とのさらなるつながりを構築することを期待したい。
注1)「たびびと」(1924年)、「女誡扇綺譚」(1926年)、『霧社』(1936年)など。
「インドネシア・ジャワの家族と高齢者ケア―見舞いから看取りまでの社会的動態を中心に」/合地幸子(AA研)
本報告は、インドネシア・ジャワにおける見舞いから看取りまでの期間における家族の日常実践を描写することを通して、高齢者ケアをめぐる関係性の広がりと家族の脆弱性について明らかにすることを目的とする。具体的には、ジョグジャカルタ農村部を事例とし、病いを患い療養中の高齢女性とその家族を取り上げる。
ジャワでは最終的な老親の世話は家族が行うものだと考えられている。とりわけ、病いを患う老親の世話はごく近い近親者が担っている。そして、ジャワの平均余命の高まりにより、この期間は長くなっている。にもかかわらず、最終的と言われる期間の家族の動態には注意が払われてこなかった。
先行研究では、ジャワと同じく双方的な社会である東南アジア諸国の家族のあり方は、家族圏や屋敷地共住集団、あるいは、共住、共食を通したサブスタンスを共有し合う関係性などの概念から分析されてきた。そして、これらの研究は、血縁関係にない家族の形を報告している。一方、高齢者ケアという観点から家族のつながりを議論する研究では、ジャワにおける特徴として、ケアを担うとされる近親者が血縁者を中心とする女性に偏る傾向があることが明らかにされている。
これらの先行研究に対して、本報告では、ケアが担われる空間、すなわち、物理的に距離が近いことに注目する。本報告では、見舞いの慣行にみる関係性の広がりを提示した後にケアが担われる場を共有する関係性のあり方を考察する。
「華人キリスト者による『短期宣教』への一考察」/アルベルトゥス=トーマス・モリ(AA研)
中国に出自を持つプロテスタント信者である「華人キリスト者」たちは、20世紀半ばより中国大陸の教会と分断し、独自の越境的な文脈を形成している。彼らを対象とする研究の多くが教会コミュニティに注目しているのに対し、本稿は行動によるトランスナショナルな関係性の構築を視座とし、特に「短期宣教(Short-Term Mission)」という種の宗教実践を対象とする。「短期宣教」とは、「長期宣教」即ち通常の宣教師派遣と相対する概念である。従来、宣教師の派遣は数年間を単位とする働き掛け、及び相応の事前準備と継続的な支援を意味するのに対し、「短期宣教」は一時的、もしくは実験的な意味が強く、最初から派遣期間を明確に決めている。このような活動は主に20世紀後半から広がっており、事実上はプロテスタンティズムにおけるミッション実践の変容を意味している。これまでの先行研究は主にアメリカの社会現象として捉えている。しかし、ほとんどの在住社会においてマイノリティーである華人キリスト者たちは、アメリカのように「短期宣教」の実践を社会との関係に還元するように見られない。本稿は華人キリスト者の間における「短期宣教」の様態を考察するため、香港のミッション団体が行った阪神地方への「短期宣教」を事例として取り上げ、3回の同行経験及び関係者への事後調査に基づき、主催者と参加者とは必ずしも動機が一致していないにもかかわらず、「短期宣教」は若者にキリスト教ミッションの実践への関心を持たせることによって確実に受容されていること、及び華人キリスト者の世代間継承に貢献する可能性を有することを明らかにした。
「イスの坐りかた――中国の農民生活にみる予期された偶発性とアフォーダンス」/川瀬由高(日本学術振興会/東京大学大学院)
中国研究の諸学において、漢族農村社会はしばしば「共同体がない」と形容されてきた。その議論は時に共同体があるか/ないかという規範論的研究の袋小路へと至ることもあったが、一方でその知見は、日本語の「ムラ」(村落共同体)の発想や西欧の術語からは捉えきれない社会の様相を現地の文脈に即して捉えようとするアプローチも促してきた。本稿も南京市郊外エリアの一農村を対象に、共同性の不在に特徴づけられる社会生活の質感を記述することを試みるものである。とりわけ、人々の日常的・非日常的な社交実践が取り結ばれる具体的状況をジェームス・ギブソンに由来するアフォーダンスの視点から検討することで、「農村らしい」環境レイアウトのなかで村民間の集合実践が生起する様を焦点化させる。
調査村では、ふだん各家の門は開け放たれており、そこでは友人・知人の勝手気ままな来訪が見られる。誰がではなく、誰かが来る。このような村民間交流の情景は偶発性と柔軟性に彩られており、訪問者/被訪問者の双方とも、いつ・誰が・どれだけの人数集まるのかを正確には把握してはいないが、かれらはそのまま、その時々の状況に応じた対処を自然とこなす。このようなかれらの身構えのありかたは、生活環境に目を向けると分かりやすい。即ち、その時々で規模も不確定な人間集合に対する歓待を可能としているものが、各家屋に少し多めに備蓄されたイスであり、壁側から部屋の中央へと動かされるテーブルであり、そして、柔軟に変更可能な家のレイアウトなのである。中国農村のイスは、偶発的な集合をアフォードする。
ただし、アフォーダンスはすぐれて関係論的概念である。中国農村らしい環境レイアウトとは言っても、その社会的アフォーダンスは民族や地域など特定の社会範疇に固定的に帰属するものではありえない。それが顕在化するか否かはひとえに、イスの坐りかたについての経験知次第だと思えるのである。
「村の祭りと老人たち―中国広東省潮汕地域村落における民俗宗教と自律性」/横田浩一(亜細亜大学)
本論では、中国広東省潮汕地域における廟を中心とした祭祀から村落における社会関係を考察する。中国をフィールドとした民俗宗教研究においては、国家―社会関係の議論が主流となっており、多くの先行研究では国家の権力の浸透や再生産、いかにして国家権力を民衆が利用するかといった現象が取り上げられてきた。それに対して、本論が対象とする村落の小規模な祭祀組織である「老人組」は、領域としての祭祀の場において権力が相対的に空洞化された形で残されたため、国家権力とのポリティクスとはあまり関わりを持たずに活動を持続している。それゆえ、村落の老人組は大きな経済力も圧倒的な権威も保持していないが、祭祀を管理・運営する組織として一定程度の裁量を確保している。結果としてC村では、村民委員会は老人組を通さず直接村落社会を管理し、他方で老人組は元宵節をはじめとした年に何回か開催される伝統的儀礼の際に主導的な役割を果たすことにより、村落社会の団結心と自己認識の基盤を提供し村落の安定を保つ役目を果たしており、このことが逆説的に村落における老人組の自律性に寄与していた。
「協働的身体の知に関する試論-スペイン・カタルーニャ州、人間の塔の最下部を事例として」/岩瀬裕子(首都大学東京大学院)
スペイン・カタルーニャ州には、200年以上の歴史を持つ「人間の塔」がある。各市町村の大祭や2年に1度、賞金をかけ公式的に順位が争われる競技会などで見られる。人が人の肩の上に上り下りすることで造られ、塔の高さや構造の複雑さなどを競う。1992年にバルセロナオリンピックの開会式に登場したことや2010年にユネスコの無形文化遺産に登録されたことで耳目を集めてきた。また、近年、高まりを見せている独立運動においても「カタルーニャ文化」の象徴として登場している。現在、10段の塔が最も高く、塔の土台となる最下部には800人ちかい人が必要とされている。塔の基礎となる最下部は塔を支えるだけでなく、塔の上に上るメンバーが落下した際のクッションの役目を担う。
本稿の目的は、苦痛や危険を伴う塔の最下部で、人びとはどのような身体感覚とその変容によって、継続して参加するようになると位置付けているのか。これまで重視されてこなかった身体技法を、人間の塔の最下部に参与しつつ、聞き取り調査で得られた「協働的身体の知」として提示することによって、人間の塔研究と身体技法論へ新たな貢献を目指すことを目的とする。