社会性の人類学的探究 トランスカルチャー状況と寛容/不寛容の機序

全体討論

(深澤) それでは、発表者全体に向けられたコメントもありますし、あるいは各発表者に向けられたコメントもありますので、今日の発表順にお一人ずつ。最初に、村松先生から。

(村松) 國弘先生、四條さん、ありがとうございます。ちゃんとお返しできるといいのですが、國弘先生に頂いた質問、コメントとしては、「沖縄の」という形容が妥当かということがまず一つと、あと日常の生活の場と沖縄という調査地というか、フィールドとの間、そのブランクについて、関係者との関わりについて、どういうことを考えているのかということの二つで合っていますか。

私は、沖縄のフィールドワークをさせていただくようになってからこんなにたってしまっているのですが、しかしながら、沖縄だから沖縄をフィールドワークしているという感覚があまりありません。そういう意味ではよろしくない研究をしているのかもしれません。というのも、沖縄の特殊性を明らかにしようとして沖縄をフィールドワークしているというよりは、元々その土地の染め物のことから始めましたので。そこの土地の固有のことではあったのですけれども。しかも沖縄らしさというところで引っ掛かってフィールドワークを続けていたのです。しかし、沖縄の特殊性にはこだわっていなくて、ただ、今、そこにあるという意味での、沖縄で実際に暮らしている方たちから見聞きさせてもらえるという家族の問題というところの視点というか、切り口で、今日のお話は持ってきたつもりでおります。そういう意味では、どういう視座を持ってくると他の土地とつないでいけるのかということを今は申し上げられないのですけれども、私としてはそういう考え方でおります。

日常と調査地とのブランクについてということですけれども、私が主に関わっている人たちは年配の方たちが多いというのもあって、そういう意味では携帯電話も使えないとか、家の電話でやり取りとか、お手紙を書いてやり取りとか、FAXが使えるとか。そういうレベルの方も多分にいる一方、80代でもSNSを使える方もたくさんいて、お若い方たちもいるので、そういった意味では地続きというか、本当に地面とはまた別の形でブランクなくつながっているという感覚もあります。家族的な意味での関わりももう20年超えていますので、冠婚葬祭的な意味で、そういう場に呼ばれたりとか関わったりとかという意味で、親族のように扱っていただいたり、私もできることをさせていただいたということはあります。それが、地理的に距離のある方とどこまでずれがあるのかは、私の経験からはあまり申し上げられないのですが、そういった視点でおります。

四條さんから頂いたコメントですが、「想いを共有する」というところで、家族の困り事を解決するという読み手、まさにそのとおりだと思うのですけれども、祖先祭祀に関する互酬関係というものがあるというふうに読んでくださったのですが、そこで誰が何を受け取るのかということが一つ問題になっているというのも、おっしゃるとおりだと思います。

私に頂いた質問としては、多宗教的な状況があるという中で個人の主観というものがどの程度意識されているのかということだったかと思うのですけれども、公的な言説というのでしょうか、学校教育も含めていわゆる公の場でのユタの排除とか、ユタ嫌いということは一つ大きいのかなと思うのですが、クリスチャンの方たちも多いという話もしたのですけれども、そのクリスチャンになるということと、祖先祭祀に関連することを行うということをものすごく厳密にきっちり区分しているおうちと、「年中行事だしね」と言って。自分はクリスチャンですけれども、沖縄のことは沖縄のことというふうにして、ものすごく家族の集まりとみて、クリスマスパーティをするみたいにお盆にも集まる、お正月にも集まるという形で祖先祭祀をしている方と、結構、両方あるかなと感じているのです。

そのキーは、一つはお嫁さんという立場なのかなと思っています。私がお話を伺っている中でも、長男、男の子を出産できた人とできなかった人というところで、拒絶というか、拒否。伝統的な祖先祭祀を拒否する一つの、ある意味正統的な手段として、自分はもうクリスチャンになってしまうという。要は、そこから下りるというか、外れるというか、そういう立場を取っている方が、婦人集会みたいな小さい、週に1回、数人の集まりがありますが、そういうところに継続的にお邪魔しているといるように感じらます。あとは障害のある家族をお持ちの方が、何かしらの事情で親族の支援がうまく受けられない。要は、その子は恥ずかしいとか、その子は見せたくないとかということがあったときに、クリスチャン、教会だったら一緒に連れて行っても一緒にいる場があります。週に1回、日曜日に教会に行って、隠さないでいいとか、その人をそのまま受け止めてもらえるという形で、嫁としてもその子供を、その人にとって子供ではなくても思う人でもいいのですけれども、お姉さんとかそういう方の場合もあるのですけれども、どのように社会的に認知を受けられるのかというところで、何か、個人の意識というふうに、意思というふうに、あるいは主観というふうに言えるのか分からないのですが、そういった形で意識されているのかなというふうに、私がお話を伺っている限りでは感じております。

ありがとうございました。


(深澤) それでは続いて、山内先生、お願いします。


(山内) 國弘先生の中の、要するに沖縄らしさというのを、沖縄は近いから、インドと違って行ったり来たりする間に、われわれが描いてしまったものを向こうに影響を与えてしまうのではないかと。これは僕もいつも感じていたところですし、できるだけそうならないように。ただ、一昨年か、1年住んだかな。それから去年も30回ぐらい、実は通っているのですけれども、行けば行くほどそこに同化するかというと、逆に教えてくれなくなって。自分自身も。やはり遠く、たまにインドに行った方が向こうの人も一気に、ばーっと話してくれるのではないかなと思うのです。最近、近場の沖縄は、普通に行っても全然相手してくれなくなってしまうので。そういうふうに距離の問題ではないような気がします。

でも、今のご質問には、大事なところもあって、僕は「沖縄の消費過剰」と呼んでいるのですけど、本日、配った戦争の「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」資料の一部は、ドキュメンタリー映画祭に出すための冊子です。琉球弧を記録する会により島言葉(方言)のみで100人の沖縄戦の戦争証言がまとまられた映像資料の一部です。2005年頃の話です。この制作のお手伝いした頃、一番言いたかったのは、あの頃も、今も、地域の沖縄にとって、やまと人が原郷を求めるとか、文学的な何か魂のふるさととか、解釈され、果ては沖縄文化を植民地的に消費することへの危惧です。もはや現在の沖縄人はそれを拒否する。だから、私は、マブイがそこから放出されているとか、そんな文学的なことは言いたくないし。

それで、もう一つ四條さんの質問で、今、確かに戦争の体験をした人たちが亡くなっていく時期で、去年からひめゆり資料館で始まっている、学芸員を中心にして、修学旅行生が聞くだけではなくて、大学生が、これは今年も全国的に募集していていますが、ドイツのナチスのゲットーの問題を扱ったドキュメンタリーの映画監督を呼んできて、沖縄で集まって4泊5日で、それで各戦跡とかを撮らせて、それをYouTubeにアップするのですが、本人たちにその知識を共有させるのです。記憶だけではなくて。というのが去年から始まっています。

その一環で、先ほどハワイの話が出ていましたけれども、かなり沖縄全体で動いているのは、ハワイのキャンプ地へ送られた沖縄の人たちで、向こうで亡くなっている人たちがいて、骨が返還されていないというので、骨の返還運動をやっているのです。これは各市町村の署名が集まって向こうに送って陳情しているのです。それで、これが加賀谷さんの発表の中に記憶とか伝承となっていますが。今日は発表できなかったのですが、というのは発表できる資料がないというか、実は私の調査地の横に古いガマがあるのです。随分基地に占領されているので、飛び地があるので、あそこで結構、地元の方に聞き取りしている洞窟があるのです。洞窟というか、ガマが。そこはもちろん、この平和教育の場になりえます。そこの一家の中で、3人ぐらいあるのですけれど、その聞き取り内容は、まとまってもいませんが、米軍が上陸した日に。それで、その親たちも死んでしまって、要するに記憶を紡げる人が誰もいないのです。要するに、家族が消滅した。危機というよりか、その人たちの伝承もないのです。それで思ったことは、家族というのは、節目の出産とか結婚式とか葬式とか、その共有している時間というのはすごく大事なのかなと。それ以上、私は今日、この研究会では返せません。以上です。


(深澤) ありがとうございました。では続いて、石川先生、お願いします。


(石川) 國弘先生がお話しになった家族そのものが危機というのは、私は今日読まなかったのですが、レジュメの最後に「危機」というのを書いたのです。レジュメの中で私が危機として取り扱ったのは、家族の外にある状況、家族の外から影響を受けて、例えば人口が減って、あるいは災害が起こって、家族はそれに立ち向かう、ある種の対抗する機能を持った集団、あるいは組織というふうに見ているわけです。もう一方で、家族であるが故に起こる危機というのが随分あるだろう。少し極端な例かもしれませんけれども、これは素人の判断で、インドのサティーとか、ああいうものも、家族や結婚に関わる、それこそ人の命に関わるようなことも、今はないのかもしれませんけれども、それ以外にも現在の家族の中に内包する、例えば家父長制的な価値観や極端なジェンダーバイアスであるとか、いくらもあるでしょう。家族と危機というのを考えたとき、そちらの方が大きいかなという印象を実は持ったのですが、その話をしてもまとまらないだろうと思いまして、家族の外側にあるもの二つを取り上げた次第です。しかし、大変重要なご指摘であろうと思います。

それから、四條先生にコメントを頂いた島の外からの力と、これは確かにそのとおりだと思います。実際に、郷友会というか島出身者の組織というのは住んでいる人の多分数十倍、数百倍に近いのではないか、そのぐらいあります。実際、大和村での例でも、今、働く場をつくるために電機部品の工場を誘致したわけです。これもやはり、シマ出身の人たちが村との合同でやりました。それから、相撲をとっている写真があるのですけれども、これは大和村の一番奥の今里集落の、1970年代に行われていた豊年祭の写真です。随分多くの力士が集まり、観客もたくさん来るのです。実は、今も同じぐらいの数の人たちが集まります。人口はもう数分の一にも減っているわけですが、この時期には東京からも鹿児島からも名瀬からもシマを離れた人たちが集まってそういうことが行われます。そういうことが多分、今住んでいる人たちの村を支えていこうという心につながっているのかなというような気もしています。大変的確なご指摘で、どうもありがとうございました。


(深澤) ありがとうございました。それでは最後に、加賀谷先生からお願いします。


(加賀谷) まず、國弘先生から頂いた沖縄の家族の特徴とは何かというご質問です。これをもし系譜関係とか、これまで沖縄研究はそれこそ親族研究と祭祀研究で始まったと言っても過言ではありませんので、そこにたどり着いてしまうと、多分、今日の発表会が逆転してしまうと思いますので、何かそれを超えた家族の在り方みたいなものを見いだしていきたいとは思っています。それで、「すむづれの家」を調査している次第です。とはいえ、沖縄の、発表の中では法人としての家ということも申し上げましたが、その法人としての家的な側面の中で、やはりすごく特徴的だなと思うのは、家の人が、つまり、家族が例えば先ほど社会的ハザードという言葉がありましたけれども、波照間島ではマラリアで家の人が全員死んだおうちがあります。しかし、そのおうちに縁類から人を後継者として入れて、屋敷を継いでいくというのは、いわゆる人類学である屋敷筋といいますか、そういう形で屋敷としての。要は血縁もない、多分、遠い親戚関係ではありますけれども、血縁もない所にそうやってぽんと人が入って祭祀をやっていくという、そういうことがあり得るということは、やはり一つ沖縄の特徴です。では、だからといってその先のご先祖さまがすごくこの人から始まってというふうに認識されているかといいますと、そうでもないのです。そういう、絶やしてはいけないという、ただそういう感覚の方が強いのかなと見ております。

あと、先ほどから「同期会」という言葉が出ているのですけれども、逆の質問になってしまうのですけれど、それは生まれ年とは違うのですか。学年なのですか。


(四條) 学年です。何年度とかという。


(加賀谷) 逆に、生まれ年というものにものすごくこだわります。生まれ年で、「あんた、何どし生まれ?」と。逆に言うと、八重山では生まれ年の祝いということを盛大にするのです。その生まれ年の祝いのときに、先ほどから話のある外に住んでいる人たちがものすごく集まってきて、盛大に祝うのです。その生まれ年でのつながり、それこそ学年を超えた、ただ同じ巳年の人たちだけでつながっていくとか、そういう不思議なつながり方というのも一つ特徴かなと思っております。それは、家族とは直接は関係ないのですけれども。

それから、四條さんのご質問で、後者の方は自分の中でまだ答えが見つかっていないのですが、最初のなぜすむづれで死なないのか、それはそこが介護制度の施設だからではないかというご質問です。それに関してですが、一応確認したのです。何か法律上、介護保険法上に、死に場所が違うことで何か手続きが違ったりするのかと。そういうことは一切ないと、「どこで死んでも、ここで死んでも、家で死んでも別に手続き上は同じです」と言われて、と同時に、「何で施設で死なないんですか」というか、「施設で亡くなるということが今までないんですか」と直接的にも聞いてみるのですが、「やはり自宅だよね」と。何と言ったらいいのでしょう。そこには、明確な説明ではなくて、何となく自宅といいますか、「やっぱりおうちですよね」という形で、そういう答えで、すごくこれだからこうしなきゃいけないとか、これですからという、そういう説明体系を持っているわけでもありません。それは介護の在り方にしても、先ほどのこういう理論があるからこれをしましょうというよりも、「何となく日々の中でやっていたよね」という、何か後から結果としての選択というようなところなのかなと思っています。


(四條) すると、二つ目の自宅とまでは言い切れないと。


(加賀谷) 私はやはり、言い切れないのではないかなと。ありがとうございます。


(四條) ありがとうございます。


(深澤) ありがとうございました。それでは、フロアーにも議論を開きまして、ここから自由討論に移りたいと思います。では、質問あるいはコメント等のある方は手を挙げていただいて、お名前とできれば所属を述べた上で、ご発言ください。それではどうぞ。


(越智) 立教大学の越智と申します。沖縄のお墓について研究をしております。山内先生と石川先生にお伺いしたいのですけれど、まず石川先生からです。私は沖縄の北部の方の、いわゆる限界集落とまでは言われていないのですけれども、かなり中山間地の集落維持がどういうふうになされているのかというのを最近調査しているのですが、その中で集落の規模を少し、今回例になさっている所をお伺いしたいです。というのも、同じく四国の中山間地で調査を行っているのですが、かなり集落規模が小さいですので、もう限界も早く迎えてしまうということがあるのです。例えば私が今調査している北部の安田だと、まだかなり規模が大きいですので、減っていっても、つまり役場がある周辺に家が固まっているということで、どうにか存続しやすいというような状況があるのですが、それは元々琉球王府時代に強制的に移住をすることによって集落をつくったという事情があります。それがこの地域の場合、奄美の場合はどうなのかということをお伺いしたいのが一つです。

そして山内先生には、打越さんが例を挙げられていますが、もう沖縄の貧困率が3割以上、本土だと全体で18パーセントとかですけれども、それを上回る非常に大きな貧困率のことを考えると、ここで挙げられていたようなある種の社会的ハザードということの中で、枠でつくった一つのこういう血縁、地縁、年齢というのがぐるぐる回っているような、そういう一つの社会構造というのはもうないのではないかと。正直、すごい少数なのではないかというふうにすら思えてしまうのです。そのことについて少しどういうふうに思われるのか。つまり、結婚して、要は嫁が来るという形で、代々と壇家を続かせていくことができるのは、もうこれはもう現状無理ではないのかという状況を住んでいる方たちはどう思っているのかということ、それと起点として一つ戦争というのがあったと思うのですけれど、それ以前のそもそもの親族の門中の在り方というのはどういうふうになっていたのかというのを聞きたいです。

すみません。質問が長くなってしまったのですけれど、私が調査している那覇の辺りだと、同じくやはり軍用接収を受けて強制移住をさせられているのですけれども、そこの地域の場合だと、次・三男はほとんどもう家を継げずに出て行って、どこかの家を継承する。あるいは、結婚できないという方が非常に多かったという記録が残っているのです。というと、やはりイナグガンスのところが数も結構多いのではないかと思われているのです。それが今では一つ規範から外れると言われているわけですので、逆にその戦前とかあるいは近世末ぐらいはどうだったのかということとやはり比較しないといけないのではないかなと思います。

ということで、すみません。いろいろと長々質問しましたが、少しお答えいただけたらと思います。お願いします。


(深澤) では、山内さん、先に。


(山内) 前半の部分のヤンキーの登場。要するに、この人たちに祖先祭祀、僕はあまりインタビューしたことはないです。これは58号線沿い、キャンプ端慶覧から大体読谷近くまでの暴走族グループですけれども、それを見て、では先ほどの土地、血縁、地縁とか、この地縁の原理が今は生きていないのかというと、実はこれ、年末にもう1回、確認の電話を地元の方にしたのです。解答は、地元ヤンキーのパーセンテージは分からないけれど、やはり彼らは地縁の大切さほか、それを認めるということはないだろうと。沖縄の少なくとも読谷の地域社会では、やはりはぐれ者であると。それで、離婚してとか。少し気になったのですが、琉球政府のときは、要するにアメリカであったときは、アメリカの法律で、こちらから高等弁務官などが行ったりもしているのですが、ジェンダーも何かも比較的民主的に裁いたはずです。そうすると、この門中における例えば位牌(トートーメー)は女は継げないとか、これはどうなのかと訴えた人はいるのかと。これは、沖縄の知り合いの公文書館関係者に一般論として聞いたら、勝った事例はあまり聞かないけれど、勝った人もいるだろうと。女が離婚した後に財産を分けろと。しかし、それは大体よそに出されたと。要するに、「ものを知らない何とかもん」という沖縄の方言があって、それで、何か居づらくなっていたのではないかなと言っていました。

これは本当に調べるためには、今度、那覇に行って、その裁判記録を全部見なくてはいけません。何パーセント勝ったのかと。あまり訴訟を起こしませんでした。それでさらに現在を質問したら、「確かに今はそれはもうない」と。当然。そういう法的なところの守りにより、どんどん門中慣習内の差別は崩れていっているのは間違いないと思います、門中制度とかそういうのは。門中の財産分割は、軍用地主も関わってくるとかなりの訴訟をしなくてはいけない額だとか、それは当然壊されていきます。では、戦前の門中はどうだったのかというのが分からない。系図は残っているけれども、墓とか位牌とかというより先に、門中の組織でどの程度、歴史の検証をしなくてはいけないかもしれない。越智先生の言っていることは、那覇とかの門中から、実は逆に起こっていったわけですよね。そういった質問ではありませんか。門中化現象みたいな。それは違うのですか。


(越智) それはまた、ここは私有地ですので。


(山内) 八重山では門中化現象をいろいろ分析したのですが、実は中部地域も門中化が始まったのではないのか、戦前でも比較的浅い時期に。というのは聞いたことがあります。首里にはもちろん門中があったかもしれませんけれども、いつごろから定着して。読谷村は大きな門中墓が有名だと思うのですけれども、いつごろからできたのかというのは、それこそ文書を読まないと分かりません。すみません。答えられません。とても。


(深澤) では、石川先生、すみません。


(石川) ご質問は大和村の集落の世帯か何かの規模ですね。大和村は、もう全部がいわゆる伝統的な集落11から構成されていまして、多いのは80世帯ぐらいです。このお話を伺って、多い方はあまり数を覚えていないですが、小さい方はよく覚えています。危機的な状態にあるだろうと思ったのは、私が40年ほど前に調査したとき、11世帯の志戸勘集落というのが一番奥から2番目にあります。それが、3カ月ほど前に私は行ったのです。そうしたら、そのときは、「5世帯だ」と言っていました。その集落内には売店は40年前からないのです。日常のいろいろなものは、その当時40年前は車やバスで売りに来る。そういう人たちが来ていましたが、今はそれも来ていないです。

40年前にお世話になったお宅へ行きましたら、当時主婦だった方は百数歳で亡くなられまして、その子供たちが今は70歳前後ぐらいで、そのさらに子供がそこに3人住んでいたわけです。こういう質問はいけないなと思いながらも、「毎日大変でしょう」と聞いたら、「そうでもないよ」と言うわけです。何でそれが可能かといいますと、「必要なものは、電話すると持ってきてくれる人がいるから」と言うのです。「週3回ぐらい来てもらっていればそんなに問題ないだよ」と言って非常に悠々と生活しているのですね。多分、普通に考えて6世帯というのが、実は複数のメンバーがいる家族はそのうちの三つで、あとの三つは村営住宅に一人で住んでいるお年寄りなのです。しかし、その集落は確かにここにあったような、豊年祭のようなものはやらなくなってしまいましたけれども、日常の生活もかなり維持されています。多分、そういういろいろな形で、多分、どこかの売店が個人的にやっているのではなくて、親族的な関係があるのだろうと思いますが、そういう人たちが、多分、市街地から20km、30km離れているのです。そういう所へ持ってきてくれて、日常生活はかなり。それで困っているという様子はうかがえませんでした。ですから、それ以外の所も売店はどんどん閉店してしまって困っているように見えるのだけれども、決して日常、いろいろな所で行き詰まりを見せているということとは少し違うという印象を持っています。ただ、さらに進んだ場合どうかというのは分かりません。だから、小規模な集落でもかなり日常の生活は。それと、今、幾つか移住の方が入ってきて、そういう人たちとも協力し合っているのだろうという様子がうかがえました。以上です。


(深澤) ありがとうございました。では、時間の関係で、もうあとお二人ぐらい質問とコメントありましたら。では、外部の方、優先で。


(武井) 筑波大学で沖縄の、主に家というより、門中の祖先祭祀や歴史のことを研究しております武井と申します。質問は山内先生と村松先生にあるのですけれども、まず質問の前に、イナグガンス(女元祖)を避けるために戦争などで亡くなった女の子の位牌が父親の死まで建てられないというのは、私は不勉強で事例をよく把握していなかったのでとても勉強になりました。ありがとうございました。

ところで質問なのですけれど、山内先生の発表はヤーニンジュの変容というところから始まって、最終的に『ヤンキーと地元』の引用で、シングルマザーの話まで来たのですけれども、ヤーニンジュの概念で考えますとシングルマザーのお母さんが連れ帰ってきた子供というのは入らないわけですが、しかしそういうものも受け止めるということも含めてヤーニンジュの変容ということを考えておられたのか、それとも話題提供として二つ挙がっただけなのか、そのあたりのことを伺いたいと思いました。


(山内) 端的に言いますと、シングルマザーの問題を考えたとき、ヤーニンジュというのは婚外子を含んできたから、社会学の研究者は、離婚率が高いとか沖縄の問題を挙げるけれども、考えたら昔から婚外子でも普通にいたから、ヤーニンジュが元々そういうものだからという論旨を張ろうかなと思ったのですが、まだ事例が少な過ぎると思ったのです。そんな昔の家族の伝統性が現代のキャバクラで働いているシングルマザーを受け止めているという、そこまでは、現在の事例からは、言い張れないと思っています。

沖縄の、先ほど越智さんにも答えにくかった、打越さんは今度階層性の本を出すらしいけれど、沖縄はもう一つ階層ができています。金持ちと貧乏の、この問題はまだ解決していない。


(武井) ありがとうございました。もう一つ村松先生に質問があるのですけれど、ユタの話。これも沖縄の研究をしていますが、あまりユタコーヤーと出会ったことがありませんので大変面白く伺いました。聞きたいことは一人ユタを買う人がお金を払ってしまう、周りの人はレジュメにもあるけれども、過度な謝金の支払いを巡ってトラブルが起こるということがあるのですが、払っている人は過度な謝金という認識はないのですよね。その本人にしてみたら、「お金でこの問題が解決するのだったらいくらでも」ということに対して、そんなにお金を払ってという議論があり、全く違う価値観がぶつかってトラブルになるということだと思うのです。少しぼやっとした質問で恐縮ですが、そういう価値観のすり合わせというものは、家族間でした上で解決するのか、それとも平行線のままでいくのか、プラス何かあるのか、このあたりのことを、最後まで質問がつながらないで恐縮ですが、何かありましたら教えていただきたいと思います。


(村松) 武井さん、ありがとうございます。ユタコーヤーにあまり出会ったことがないというのは、多分年代、性別、ジェンダーとかの問題で、多分、随分違ってくるのかなという。私は高齢の特に女の人たち、おばちゃまたちの中にいることが多いですので、よりそういう話を聞きやすい。男性でまだ若くて現役でばりばりお仕事されている人とか、それ以下の方たちと出会うのであれば、出会わないことが多々ある。けれども、多分その人たちのことも、ご本人が知らなくても、祈られていたり、願われていたりするというのはあるのではないかと思います。

ご質問が、謝金もそうですけれど、価値観のある種のすり合わせが可能かどうかというところだと思うのですけれども、本当にどうお答えしていいか分からないのですが、家族を思ってというところが共有できているという意味ではある種のすり合わせになっていると言えます。言い過ぎでしょうか。言えるのかなとも思うのですが、それこそ年金とか貯金とか田畑とかを売った少しまとまったお金が入りますと、それを本当に使い込んでしまうわけです。だから、先ほどのおうちの場合、娘さんが本土にお母さんを連れて行ってしまったのですけれど、そのときに介護保険とかのことも含めて完全に引っ越しして、お母さんにちゃんとお母さんのお金が入るようにして、もう全部別々にしました。そうしないとお母さんの分も使ってしまうからという状況があるのですけれども、実際一緒に生活している上では、「家族のことをやっているのだし」というのがあるけれども、本当にこの1万円を使われたら買い物は難しくなる、病院の支払いは少し待ってもらわないといけないよねということはあります。

そうすると、まだこの年代の方だと子供たちがたくさんいる方が多くて、8人とかいるのですけれど、それで誰かしらかが何かしらの補充、手を出してくる、車を出してくれるとか、少しお小遣いを持ってきてくれるとか、孫でももうかなり大きくなっていますから、お母さんになっていますから、ちょっと持ち合わせてくれるとか、ご飯を作ってくれるとか、そうやってやりくりしているのを、それをすり合わせと言っていいかどうかは難しいのですが、お答えになりますでしょうか。


(武井) ありがとうございます。


(村松) ありがとうございます。


(深澤) ありがとうございました。今日はどうも5時間にわたる長丁場で申し訳ございませんでした。今日は本当にありがとうございました。